【日本遺産】飛騨匠の技・こころ 〈木とともに、今に引き継ぐ1300年〉
日本遺産を旅する 岐阜県【高山市】
■飛騨匠の源流の地 飛騨国府を行く
中央政権が認めた心技のルーツを古代寺社に見る
朱鳥元年(686)、天武天皇の死後に大津皇子が謀反を起こし、これに与した新羅の僧・行心(こうじん)が、謀反露見により配流されたという記録が日本書紀にあるのだが、この配流先こそ飛騨国だった。この地が選ばれた理由は、優れた知識を持つ政治犯を配流するに適した、政府が認めた伽藍があったことによる。
飛騨地方全体で14箇寺以上と全国屈指の密度で、古代寺院が見つかっているが、中でも高山北部の国府地域では特に多い。石橋廃寺跡や光寿庵跡では、その礎石と共に、都で働く官人を描いた瓦が出土しており、飛騨匠の都とのつながりを示している。
やがて飛騨工制度が消滅した後も飛騨匠たちは都との交流で培われた技術を生かし、数多くの寺社建築をこの国府地域に残すことになる。室町時代、彼らが残した代表的建造物に、臨済宗妙心寺派の安国寺がある。応永15年(1408)に建立された安国寺経蔵の内部には経典(木版一切経)を納めた八角形の日本現存最古の輪蔵がある。
「この輪蔵には本元(ほんげん)という僧が中国で買い求めた、元の時代につくられた5397巻の経典が納められていました(現存2208巻)。仏を念じながら輪蔵を回転させることで、すべての経典を読んだことと同じご利益があると信じられてきた信仰の中枢だったのです。」
と話すのは安国寺の堀英信住職。
また国府地域には、室町時代初期に再建された、和様、禅宗様、大仏様の三様の意匠を巧みにまとめ優美な姿を見せる荒城(あらき)神社本殿、簡素な造りながらも、斗栱(ときょう)・手挟(たばさみ)・大瓶束(たいへいづか)に雄健な意匠を用いた阿多由太神社本殿、小ぶりながらこの二つの流れを汲む熊野神社本殿があり、飛騨の中世寺社建築の流れを知る上で重要な地域である。そのいずれにも、現在では入手困難なほど良質のサワラやヒノキ、スギが惜しげもなく用いられている。これらの建物に今でも建築当初の部材が多く残るのも、飛騨匠の目利きの確かさを物語っている。
石橋廃寺塔心礎(とうしんそ)[左]
古代寺院の礎石。現在は広瀬古墳の横に移設されている。
多数の寺院の存在は、飛騨工制度の背景となった。
光寿庵(こうじゅあん)跡出土瓦 [右]
烏帽子をいただいた線画の人物像が、官人たちの往来を彷彿させる。他に植物を描いたものも出土した。(諏訪神社蔵)
安国寺経蔵内の輪蔵
中心に設けられた1本の軸のみで全体のバランスがとられている。600年以上の時を経ているが、滑らかな回転を見せるのは匠の技術が優れている証。
安国寺経蔵(国宝)
簡素な禅宗様素木(しらき)造りが特徴で、欄間は波連子が飾られている。また、柱下には禅宗様によく見られる礎盤がなく、土台が置かれている。高山市国府町西門前474 ☎0577-72-2173 拝観料/一人500円(要予約)
荒城神社本殿(国指定重要文化財)
本殿は室町初期の三間社流(ながれ)造り、柿(こけら)板葺き。創建は古く、延喜式神名帳(927年)に飛騨国内の八社のひとつとして記されている。
熊野神社本殿(国指定重要文化財)
安国寺の背後にあり、最初は安国寺の鎮守であったと伝わる。元禄7年(1694)の元禄検地帳に、18坪の境内地がみえる。
阿多由太神社本殿(国指定重要文化財)
清和天皇の貞観9年(867)に従五位上を授けられ、律令の施行細則だった延喜式や三代実録にも記載された古い神社。